岡崎 晃(高2回)「坂田 祐 先生のこと」

同窓会誌「橄欖第52号」をお送りいただき懐かしく拝見した。表紙の右下に小さく校訓「人になれ 奉仕せよ」が記されており、冨山校長のご挨拶の中にその校訓を繰り返し説かれた創立者「坂田 祐先生」の名が一回だけ出てくる。時代が移りつつあることを実感したので、坂田先生と直接関わりをもった世代が居なくならないうちに、坂田先生についてとっておきの逸話を書き残しておきたいと思った。これは先年(2014年5月8日)に「創さん」こと坂田 創先生との約束でもあったのだ。

坂田 祐先生がご自身の教育者としての一生を回顧なさった「恩寵の生涯」を上梓されたのは1966年5月のことで、満88歳を期に現役を引退なさった翌年であった。全国のキリスト教主義学校に在職する教員に配布されている「キリスト教学校教育」という月刊誌があるが、その誌上に私はこの「恩寵の生涯」の紹介・書評を書いた。大船教会の牧師をしながら、平和学園の宗教主任を兼ねていた頃である。

私に執筆を強いたのは学院の先輩で三春台の牧師でもあった「卓さん」こと伊藤卓二先生(中学11回)であった。卓さんは学院を退職されてから教育同盟の主事をしておられ、前記機関誌の編集長でもあった。「坂田先生の提灯持ちは沢山いる。そんなのは面白くないから、遠慮なく批判的に対話を呼び起こすように書け」との命令があった。その頃私は教育同盟の各種集会に頻繁に出席していたので、卓さんとはかなり親しくなっていた。不思議な信頼関係が出来て、お互いの個人的な身の振り方まで含めて「ため口」で話をしていたと思う。ともかく卓さんの唆しに乗って大先生のご本にかなり厳しい批評を書いてしまった。今顧みれば汗顔の至りではあるが、「士師時代の谷間を抜けるために〈恩寵の生涯〉を読んで」と題したら、その文章は「キリスト教学校教育」誌1966年8月1日発行の96号にかなりのスペースをとって記載された。

その概要は、
①坂田院長が大戦中文部省の軍部の圧力に抵抗して、礼拝や聖書の授業を止めなかったことは立派だったと思う。しかし、そこで語られていた説教や聖書の話は国策に添ったものに変質してしまっていたのではないか。
②米国のミッション団体からの援助を頼らずに独立した教育を守るために、学生、生徒数を増やし学校の規模を大きくしたのは良いとしても、そのために建学の精神とかキリスト教信仰教育の面で坂田学院長の人格的影響力が薄まってしまったのではないか。その他に昔近衛騎兵として明治天皇に供奉した院長には無理な話だろうが、国家権力との対決姿勢が欠けているとか、院長の教育理念を受け継ぐ真の後継者が育っていないなど、言いたい放題を並べている。勿論のっけからこんな無遠慮な批判を列挙したのではない。あらかじめお宅を訪問させていただき、ものすごく緊張しながら色々と書かれたことについて伺う機会を持ったのでそのことを含めた丁寧な本の紹介を前文として書いていた。訪問時に撮らせていただいた写真も添えられることになっていた。

ところがその前文の先生への賛辞と教育者としてのご生涯への尊敬の辞の一部、原稿用紙一枚分を卓さんは「長すぎる」と抜き取ってしまったのである。未練がましいがその一枚は今でも保存しある。といってもそれは自分のためのアリバイに過ぎないけれど。いずれにしても坂田先生に向かってこんな無遠慮な批判を書いた者は居なかったであろう。因みに中学校第一期生町田四郎先輩の「恩寵の生涯」の感想文は敬慕の念に貫かれた賛辞になっている。そこには偉大な教育者を傷つけるような言葉は一切ない。

秋になって坂田先生から一通の葉書が送られてきた。達筆で「葉書文」のお手本にしても良いような簡潔な文章であった。現在の葉書より一回り小さいサイズの、10月10日付けの葉書は先生の写真と一緒に今も保存してある。「面談いたしたし」の一言がクローズアップされて目に飛び込んできた。よく読むと「御面談致し度、ご都合の良い日にご来訪下さい」とあり、在宅の曜日が書かれた後に「ご来訪の日時をお知らせください」とあった。「そらおいでなすった、さぁどうする?」すぐに卓さんに電話をし「呼び出されちゃったぞ、どうしようか」と言ったら「ほっとけ、ほっとけ」と卓さんはとりあってくれなかった。仕方がないので返事もかかないまま時が経った。晩秋のある朝まだ8時前だった。幼稚園の玄関で「おはよう!」と大声が響いた。出てみると雲をつくような大男が立っていた。(私にはそう見えた)なんと坂田院長だった。慌てて玄関を入って直ぐの幼稚園ホールにパイプ椅子を出して座って頂いた。当時私が預かっていた日本基督教団大船教会とその付属幼稚園は、度重なる水害のため建物ががたがたで県からの改善命令が出て、改修工事作業を進めている最中だった。

座に着かれるなり先生は単刀直入に要件に入られた。「君がどういう考えを持とうと自由だが、書かせた伊藤君も書いた君も僕にとっては大事な教え子だ。伊藤君は共産主義かぶれで食いはぐれているのを関東に入れてやった。彼がどういう考えを持っているかは解っている。だが、君は牧師なのだから彼の影響を受けて、あまり左がかったことを言うのは君の伝道のためにならんと思って忠告に来た」。念のために申し上げておくがせっかくの坂田先生のご忠告にも関わらずこの「教え子」はとっくに「真っ赤か」だったのである。父は人権派弁護士集団自由法曹団の団長を務めており、戦前の非合法時代には共産党員として逮捕投獄され、弁護士資格を取り上げられる羽目にも遭った筋金入りの左翼だった。私自身は鎌倉では「赤い牧師」として知られ、地域の市民運動の旗を振っていたのである。

級友たちにも、牧師たちにもそのことは知れ渡っていたのだが、どうやら坂田院長はご存じ無かったようだ。とにかくそれだけ言われるとすっと立ち上がられ「見たところ大変なようだが、貴い仕事だからしっかりやりたまえ、じゃ、さよなら」と付け加えて帰られた。不審に思うほど一言の反論も、一言の釈明もなさらなかった。後で思ったのだが先生は私の批判に深く傷ついておられたのではなかろうか。「恩寵の生涯」は坂田祐先生の教育者としての集大成であった。それを遠慮会釈なくぶった切ったのである。若気の至りとはいえ今は心無いことをしてしまったと慙愧に堪えない。坂田祐先生は「本当は、君は何も解っておらん」と仰りたかったに違いない。

それからしばらくして一通の現金書留が届いた。差出人は「坂田 祐」とあった。いくら入っていたかは思い出せない。「教会建築のために 坂田 祐」と書いた小さいメモだけは鮮明に覚えている。私は思わず「参った」と叫んだ。改めてこの方は立派な人なのだと思った。献金をもらったから言うのではない。坂田 祐とうい人は何よりも「良き教育者」であったのだ。教え子ひとりひとりに心を遣う本物の教師であったのだ。

先生が召天なさったのはそれから3年後のことであった。もう半世紀も前のことになる。