「橄欖」(かんらん)の由来
イスラエルの都、エルサレムの東側にオリーブ山がある。この山(丘)を超えてベタニヤ村エリコの町へと至る。
この山のエルサレム側の麓には「ゲッセマネの園」があることは有名である。
主イエスが捕縛され、十字架につけられる直前までイエスは特別な「祈り」の時を持った。
オリーブは春の終わりに白っぽい小さな花を咲かせる。花弁は4枚からなり十字架の形をしている。これが校章のデザインモデルである。
春はイースターを祝う時で、その前には最後の晩餐があった。
このあとイエスは祈るために出かけられたのは、この園であった。(マルコ11:1、14:26を参照)
関東学院の初代院長 坂田 祐(たすく)は、1919年の中学関東学院第1回入学式で「人になれ 奉仕せよ」を校訓として示した。聖書と深い祈りの中で示されたとある。
(「恩寵の生涯」より)この第1回生の卒業式は、関東大震災(1923年)により校舎を失い、キリスト教バプテスト派の関係もあって捜真女学校の講堂(現在の神奈川区中丸)において行われた。
告辞の中で語った言葉に次のものがある。
「諸君は、人道上のチャンピオンになれ!」は、その場にいた者だけでなく、後々にまで心に残る言葉となっている。
その式のあと横浜YMCAで行われた卒業生の会を「橄欖会」と名づけ歩みをはじめた。
初代の会長は、坂田 祐先生だった。
坂田先生は、かつては兵隊山と呼ばれていた三春台の丘を、あの主イエスが十字架に向かって歩まれる最後の時となった、
オリーブ山と重ね合わせて、卒業生の会の名前を付けられたことは、真に意義深いと言えよう。
この「オリーブ」の名前は、中国語に漢訳されたとき、この「橄欖」の字が用いられたが誤訳であった。
本来、橄欖という木はオリーブとは異なる別の木であった。
それが日本でもオリーブ=橄欖として定着しているのである。
さらに、旧約聖書の「ノアの洪水物語」で、方舟から放たれたハトが、くちばしにオリーブの葉を持ち帰った。
(創世記8:9)そのところから、オリーブは「平和の象徴」として用いられている。
「人になれ 奉仕せよ」の校訓は「平和を求める人道上のチャンピオンになれ!」の祈りが込められており、
卒業生の会「橄欖会」は、聖書の信仰を土台にした三春台の丘で学び、
育まれた若者が「平和の使者」となって、広く世界に出て行くことを、
初代橄欖会の会長 坂田 祐は祈り願ったに違いないと心に思っている。
副会長 植村和生